1981年に名古屋で山本重雄さんが創業した「世界の山ちゃん」。
独特なスパイスが効いた「幻の手羽先」は一度食べたら忘れられません。
2014年には海外に進出し、年商75億まで伸びたそうです。
2016年にカリスマだった創業者の重雄さんが突然倒れ、死去。
その後を継いだのは、妻・山本久美さん。
山本久美さんは、小学校教員から専業主婦となり、夫との死別で経営者となりました。
「カンブリア宮殿」では、様々な苦悩を乗り越え、過去最高売上を突破した舞台裏に迫ります!
かつてはバスケに打ち込み、指導者として子どもたちに寄り添ってきたという山本久美さん。
小学校教員としての経験を経て、やがて家庭を支える専業主婦に。
そんな久美さんが、突然「世界の山ちゃん」の経営を引き継ぐことになったのは、
最愛の夫・山本重雄さんとの別れがきっかけでした。
1700名近い人間をまとめる経営の基礎は、
全国制覇を成し遂げたバスケットボールの部活で培われていました。
本記事では、「世界の山ちゃん」の代表取締役・山本久美さんのwiki経歴や人柄、
バスケ一筋だったことや小学校教員だったという過去についてまとめていきます。
山本久美さんはどんな人?

プロフィールは?
山本 久美(やまもと くみ)
旧姓:塩澤
生年月日:1967年6月6日
出身地:愛知県名古屋市
エスワイフード代表取締役
趣味:お菓子作り、家庭菜園
趣味がお菓子作りだということもあり、代表取締役に就任後は、
女性や家族連れに受けがいいデザートメニューを増やしたそうです(^^)
人柄は?どんな人?
久美さんは、仕事を離れると、方向音痴で忘れ物が多かったりなど、
かわいい女の子な部分があるそうです。
一方、人を引っ張り、バラバラにならないようにつなげていくという頼もしさもある女性です。
そういった頼もしい部分は、これまでに培ったバスケ部としての活動、
その後のバスケ指導者としての活動、専業主婦として家庭を守り子育てをしてこられたというさまざまな立場としての経験からなのだと思います。
これまでの経歴を時系列でまとめました。
経歴・学歴は?
バスケ一筋だった学生時代~
名古屋市立守山中学校
小学6年生でバスケを始めたものの、中学ではバレー部に入ろうと決めていたそうです。
ところがたまたま、姉がバスケ部の井上眞一先生の学年だったそうで、
「妹がバスケをやっているんなら練習に連れてこい」と指令が下りました。

井上眞一先生は、守山中学を経て名古屋短期大学付属高校のバスケ部監督に就任。
インターハイに24回、国体で21回など計67回の優勝を果たし、全日本ジュニアのヘッドコーチも務めたという指導者。
2024年12月31日に逝去しました。
井上先生も、久美さんのバスケのスキルは当時からあったと語られていました。
そして井上先生のアドバイスに従い、中学校ではバスケ部への入部を決心。
名古屋市立守山中学校に入学。
守山中学監督である井上先生の指導は、切磋琢磨することで実力をつけていくものだったそうです。
それぞれの学年でチームを作り学年対抗で試合をすることで、上級生は下級生に負けられないと真剣になり、学年内の結束も強くなったそうです!
部活でありがちな下積みがほとんどないのが特徴で、
本試合前を除き、1年生はボール広いや声出しばかりといったことがまったくなく、
1年生から3年生までほぼ同じメニューを一緒に組んで練習していたそうです。
井上先生は学年ごとの対抗戦や練習の様子を見て、学年に関係なく選手を選ぶ。
経営者となった現在では、人材をよく見て、適材適所に置くことを心掛けていて、
これは井上先生の影響が強いと語られています。
バスケでの経験が未来の経営の源となって蓄積されていくとも話されています。
さらに2年生の時、キャプテンに抜擢されました。
2年生であっても上級生を引っ張り、先生と選手双方の要望や不満をくみ上げ調整する
パイプ役を担うことも、後の経営者としての源となったようです。
名古屋市立向陽高等学校
久美さんが身長が155㎝だからレギュラーにはなれないとのことで、
高校時代はバスケを続けつつ充実した女子高生ライフを送っていました。
井上先生も、バスケだけが人生ではないと伝えたかったようです。
愛知教育大学
恩師である井上先生の影響で、井上先生のような教師になりたいと思い、
愛知教育大学に進学しました。
井上先生は、厳しいところもあるけど、生徒が言いたいことがあるときは最後まで全部聞いてくれて寄り添ってくれるような方で、バスケの指導者としても人としても尊敬していたと話されています。
この大学時代の1年生の時に、「世界の山ちゃん」の前身である「山ちゃん」に
友人に連れて行ってもらったそう。
このときはまだ、重雄さんとお互いの存在も知らなかったそうですが、
後に夫となる方の店に来ていたなんて凄く運命的ですね!

当時、数件の居酒屋を経営していた重雄さんが開発したピリ辛の手羽先が
❝幻の手羽先❞として口コミで人気を博し始めた、その矢先のことでした!
小学校教員・名古屋市立猪高小学校に赴任
中学に行ってバスケを指導したいと思っていましたが、小学校配属に。
身を潜めていましたが、噂が広まっていたようで、
夏にはバスケ部主任顧問の補助を引き受けました。
バスケ部の指導者に
バスケ部の主任顧問が病気のため長期休暇を取ったことで、
久美さんがバスケ指導の中心となりました。
指導を始めると、子どもたちの実力がみるみる間に上昇していきました。
久美さんが指導の中心となった1年後には、男子チームが市大会で優勝するほどに!
1993年、久美さん26歳のときに設立したクラブチーム「昭和ミニバスケットボールクラブ」
の活躍は目覚ましいの一言でした。
チーム結成1年目で全国大会で優勝し、全国的な注目を集めます。
陰で「デビル塩澤」(久美さんの旧姓)と恐れられていたほどの猛練習、久美さんならではのみんなをまとめ上げ引っ張っていくキャプテンシーあふれる指導、優秀な選手陣が飛躍の理由でした!
それぞれの人間が自分の役割をきちんとやること、
苦労している人もいるんだということも常々言い、そういう人を褒めたり感謝を伝えたりすることで
みんながまとまっていけたと話されています。
これまでのバスケの経験で、人を思いやる気持ちを学び、自分の精神性を身に付けたと語っています。人生において本当に大切な期間だったんですね!
結婚して専業主婦に
クラブ創立5年目、久美さん30歳の時、
「面白い人がいる」と紹介されたのが、山本重雄さんでした。
大学1年生の時に行った「山ちゃん」は、10店舗を経営する「世界の山ちゃん」に急成長していたのです。
学校の同僚たちにはない一本気なところに惹かれ、32歳で結婚。
山本久美さんとなり、教員の仕事を退職しました。

久美さんは、ひとつのことにのめりこむ性格で、家庭と仕事の両立は難しいと考え、
教師を辞める決断をしたみたい!
2001年に長女を出産、その3年後に次女を出産、さらに4年後には長男を出産し、
3人の子宝に恵まれました。
夫との死別
夫の重雄さんは、やり手経営者の常として、4時か5時には起床していました。
誰よりも早く仕事を始めるのが日課だったそうです。
2016年8月21日の朝6時ーー。
久美さんが横たわっている重雄さんの姿を見て、寝たふりをしているのだと思いましたが、
大ごとだということに気付き、あわてて救急車を呼びました。
享年59歳、死因は大動脈解離だったそうです。
「決して悪いようにはせんからー」
久美さんにも従業員にもそう語りかけるのが常だったというカリスマ経営者の突然の死去。
久美さんはこのときはまだ、自分が全国68店舗、社員約180名とアルバイト約1500名を率いる立場になろうとは考えてもいませんでした。
経営は素人という自覚がありましたが、
重雄さんの死去1週間後に、代表取締役就任を決心しました。
頭に浮かんだのは、全国制覇を成し遂げた時の経験と、
クラブチームの監督としての異例のスピード優勝を遂げた時に悟ったこと。
全員がまとまってそれぞれの役割を果たす大切さでした。
また、夫の非凡な人柄を社風として引き継ぐのが妻ならではの役目であるとしているそうです。
まとめ
夫・重雄さんの逝去後、「世界の山ちゃん」の代表取締役を引き継いだ山本久美さん。
学生時代のバスケットボールでの経験、その後のクラブチーム監督として多くの選手を導いてきた指導者としての視点を、
経営にも活かしてきました。
亡き夫のユニークで愛される人柄を社風として大切にしながら、
それぞれの社員が自分の力を発揮できるように、適材適所に配置することを重視。
個々の力を信じ、チームとしての力を最大化する経営スタイルで、
過去最高売上という成果を築いています。
今後も、その確かな手腕と人を育てる力で、
さらなる飛躍と活躍を見せてくれることが大いに期待されますね!
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