「芸術は爆発だ!」の名言で知られる芸術家・岡本太郎さん。
NHK「沼にハマって聞いてみた」では、今の小学生たちが岡本太郎さんにハマる様子が紹介され、
改めて注目が集まっています。
今の小学生が岡本太郎さんを知るきっかけは、図工の授業や教科書、テレビやYouTubeなどさまざまです。
太陽の塔のインパクトは子どもたちの心にも残りやすいんでしょうね(^^)
親や祖父母が知っていて話題にすることもあるかと思います。
世代を超えて注目が集まっているなんて、
「何がすごいの?」「どんな人なの?」と思う人も多いはず。
この記事では、岡本太郎さんの生い立ちや人柄、人を惹きつける魅力など分かりやすく解説していきます!
岡本太郎はどんな人?

プロフィール
岡本 太郎(おかもと たろう)
日本の芸術家・作家
生年月日:1911年明治44年)2月26日
国籍:日本
父:岡本一平、母:岡本かの子の長男
身長:156㎝
※1996年1月7日に満84歳で死去されました。
岡本太郎さんが影響を受けた芸術家には、マルセル・モース、パブロ・ピカソなどいるそうですが、
ご両親である岡本一平さん、岡本かの子さんも名を連ねています!
どのような影響を受けたのでしょうか?
両親も有名な芸術家!
父:岡本一平
明治~大正時代を代表する画家、漫画家、文筆家。父は書家。
当時の文化人や芸術家とも交流が豊富。
大正デモクラシー的な自由主義・開かれた文化を愛した人物です。
家は文化人のサロンのようで、著名な芸術家や知識人が頻繁に出入りしていたそうです。
子供を大人と対等に扱う「自由教育」な育て方であったそう。
岡本太郎さんは、芸術を生活の中心に捉える価値観を家庭内で自然に学びました。
既成概念を疑い、壊すことを恐れない姿勢は、
岡本太郎さんの「芸術は爆発だ」「常識を壊せ」という理念に通じていますね。
父は文章も絵も得意だったようなので、岡本太郎さんもまた、
絵画や言葉を自由に操る多才さを受け継いだのだと思われます。
岡本太郎さんの芸術家としての才能はもちろんですが、それ以上に
「自由に表現することを認められる家庭環境」が大きかったんだろうなと感じます。
環境や遺伝の力って、本当に凄いですね!
母:岡本かの子
小説家、歌人、仏教研究科。
大正~昭和初期の女性芸術家としても異色の存在で、官能的で情熱的な詩や小説で知られていました。
息子を溺愛する一方、自分の意思を投影し、岡本太郎さんを「天才」に育てたいという強い執念があり、
教育も生活も徹底的にコントロールしていたというエピソードがもあります。
幼い頃から文学や芸術に触れされ、感受性を豊かにする教育をされていたようです。
岡本太郎さんは母に認められるための苦しみも抱えたそうですが、
その葛藤が自身の芸術に深みを与えたとも言われています。
太郎さんは母の影響から距離を取ろうとし、パリ留学をしていた時期もありました。
その時の愛を描いた「母子叙情」は代表作となりました。
複雑な母の思いこそが、太郎さんに「誰にも縛られない強烈な自己表現」を生む土台を
与えたのかもしれませんね!
性格や人柄は?
強い自己表現欲
両親とも芸術家で、表現を大切にする家庭環境だったこともあり、
自分のやりたいことを全力でやるというブレない姿勢があります。
反骨精神と挑発性
特に母親の強い期待を受けた反動で、「誰の者でもない自分でいたい」という強い意識が芽生え、
それが「常識を疑え」「社会を挑発せよ」という姿勢になったのだと思われます。
極端でストレート
感情表現が豊かで、遠回しを嫌う性格。
名言「芸術は爆発だ!」のように、一言で本質を突く強い言葉で、
全力でぶつかる性格です。
岡本太郎さんの性格は、父と母それぞれの強烈な影響から形づくられました。
父からは、常識を笑いとばし、自由に表現する精神を受け継ぎ、
母からは、強い愛情と期待を注がれ、感受性を磨かれると同時に大きなプレッシャーも感じました。
こうした両親からの影響が、「誰にも縛られずに自分を爆発させる」強烈な個性に育てたんですね!
岡本太郎の生い立ちと人生は?
「芸術は爆発だ!」という名言は、どんな人生から生まれたのでしょうか?
岡本太郎さんの子供時代から大人になるまでの生い立ちを、順を追ってたどってみましょう!
幼少期
多くの文化人が出入りする自由な家庭で育ち、幼い頃から絵や芸術に触れてきました。
母の強い期待と愛情を受け、感受性を磨かれます。
絵が好きで盛んに描いていました。
10代~20代
慶應義塾普通部を卒業後、18歳で東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学。
1930年の19歳の時パリに留学し哲学や民俗学を学ぶ。「何のために絵を描くのか」という疑問に苛まされていたそう。
ピカソの作品に出会い強い衝撃を受け、絵画制作に打ち込むようになりました。
戦争体験
1940年、第二次世界大戦の激化で帰国を余儀なくされます。
帰国後まもなく徴兵され、中国戦線へ出征。
銃を持たされ、「芸術家ではなく兵士」としての自分を体験します。
「生きるとは何か」「人間とは何か」という問いが、戦場で現実のものとなりました。
戦後は、「命ある限り、自分を全力で表現する」という信念に変わっていきました。
日本での活動再開
生と死のギリギリを体験したことで、生きることや表現の意味に強烈な覚悟が生まれました。
「芸術は爆発だ!」という言葉の裏には、死と隣り合わせだった経験から来る強い生のエネルギーがあります。
「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言を発表し、
当時の日本美術界に挑戦状をたたきつけることとなりました。
前衛芸術家として活動を再開します。
前衛芸術家とは、既存の芸術の枠組みにとらわれず、自由な発想で新しい表現を追求することが特徴。絵画、彫刻、音楽、演劇、文化などさまざまな分野で前衛的な表現が見られます。
岡本太郎は何がすごいのか?
では、岡本太郎さんがなぜこれほどまでに多くの人を魅了し、
「すごい!」と言われるのか、その理由を箇条書きで紹介します!
「芸術は爆発だ」その意味
このたった一言で、芸術の本質を表現していますね!
特に戦後の日本社会は秩序や常識を重視していましたが、
岡本太郎さんは「そんな常識をぶち壊せ」と呼びかけました。
芸術は特別な人だけのものじゃない、誰もが自分の内側にあるエネルギーを爆発させることが芸術であり、
それを一言で表したのがこの言葉です。さらに岡本太郎さん自身が体現されています。
1986年には新語・流行語大賞も受賞しています!
芸術の枠を超えた活動
絵画だけでなく、彫刻、建築、デザイン、公共空間アートなど幅広い分野で活躍。
大阪万博「太陽の塔」、「明日の神話」などの大規模な公共作品も制作しました。
テレビでも強烈な個性を発揮
1950年ぐらいからクイズ番組などに多数出演。
名言を叫びながら現れる演出が人気を博しました。
番組内で共演した片岡鶴太郎さんの芸術家としての才能を見出しました。
このように岡本太郎さんは、「芸術は爆発だ!」という言葉だけではなく、
芸術の枠を超えて表現し続けた唯一無二の存在です。
常識にとらわれず、自分を貫いた生き方そのものが、多くの人に影響を与えたということが分かります!
まとめ
「芸術は爆発だ!」の一言で知られる岡本太郎さんですが、
その背景には自由な家庭、戦争の極限体験、そして常識に挑み続ける生き様がありました。
誰もが自分を表現する大切さを教えてくれる、唯一無二の芸術家です。
そのパワフルな生き方や作品は、今の子どもたちにも大人気です!
世代を超えて、「自分を大事にして表現する」楽しさを与え続けています。
大阪万博の「太陽の塔」は、一度見たら忘れられないインパクトですよね!
「生命のエネルギーの爆発」を表現した作品で、まさしく「芸術は爆発だ!」を形にしたような作品です。
こういった作品たちは、単なる記念碑ではなく、今を生きる私たちや未来の世代に、
「自分をどう表現するのか」を問いかけ続けています。
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